千葉は館山の”沈船ポイント”の調査を行った。
海上自衛隊の館山航空基地隊のほぼ目の前にあるそのポイントは水深25m。漁港から出航し、船から空を見上げてみると、訓練なのか、ヘリコプターが何度も離発着し、頭上を轟音で通り過ぎて行く。
「どれくらい残っているのだろう?」
ブリーフィングでだいたいの想像は付いているが、期待を胸に潜行してみたところ、船体はほとんど確認できなかったものの、そこに船があったであろう形跡と、いくつかの舷窓が海底に転がっていた・・・
現地の情報によると、ここにあった船は日本海軍の「漣」(さざなみ)であるという。
この「漣」について紐解いてみると、かなり前の船であることが分かった。1899年(明治32年)に竣工。佐世保水雷団第二水雷艇隊所属となる。製造はヤーロー社。ロンドンに拠点のあった造船会社でイギリス海軍のみならず海外向けにも駆逐艦を輸出していたそうだ。ボイラーの製造なども手掛けていたヤーロー社は、呉市海事歴史科学館に展示してある巡洋戦艦「金剛」搭載の「ヤーロー式ボイラー」の生みの親であり、日本の開発した有名な”艦本式ボイラー”はそれを改良したものである。1899年10月にイギリスを出航した「漣」は、様々な経由地を経て翌年3月に横須賀に入港、任務に当たった。
「漣」における数ある任務の中で日露戦争での活躍は特筆するべきだろう。1904年に起こった日露戦争において旅順口攻撃や黄海海戦に参戦、そしてこの艦において最もハイライトとなる「坂の上の雲」などで有名な日本海海戦で、ロシア・バルチック艦隊の駆逐艦ベドウイを拿捕、司令長官であったロジェストヴェンスキー中将を捕虜としている。
第一次世界大戦に突入した1914年に雑役船となり「漣丸」に改称。青島の戦いなどに従軍しながらも1915年(大正4年)に艦砲射撃用標的として使用されることが決定。1916年(大正5年)8月29日、標的として館山沖で処分され廃船となったものの、翌1917年(大正6年)1月9日に沈没廃船として25円で売却されおり、現状の様子からその後にサルベージされたのではないかと思われる。
撮影をしたタイミングではこの時期にしては珍しく海藻が茂っており、船のディティールが分かりにくいということであったが、ある程度、”ここに船があった”という記録は残せたのではないだろうか。
船体内部にはたくさんの石が積み込まれていたようで、いくつかの場所でそれらの形跡を見てとれた。また、写真に写り込んでいるが、船の周りには多くのタイヤが魚礁として置かれているが、こちらは別の機会で投入されたもののようだ。「昔はスクリューも見れた」という現地ガイドさんの言葉もあったのだが、艦尾周辺を探しても分からない。これだけの船のサイズのスクリューが埋もれてしまうということは考え難いのだが、こういった沈船の話を聞いていると「いつの間にか無くなってしまった」というのは残念ながらよく聞く話である。水底にある舷窓などももしかしたら「マニア」にしたら喉から手が出るほど欲しいものかもしれない。
テーマである第二次世界大戦のレックとは少し離れたものになってしまったが、このポイントはダイビングポイントとしても潜られている場所とのことで、ダイビングを楽しむ際に生物だけではなく「歴史を学ぶ」ことも皆さんにお勧めしたい私としては、今後も現地の方々には過去の歴史を感じることのできるポイントとして見守り、多くの方に紹介していただけたらと思っている。
※引用:日本海軍全艦艇史(福井静夫著)/ アジア歴史資料センター / wikipedia / 沖ノ島ダイビングサービスマリンスノー
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